アリとキリギリス
2012-07-05


「アリとキリギリス」は有名な寓話。
有名であると同時に、時代を超え語り継がれている。
歴史性がある、ということは普遍性がある、ということ。
普遍性がある、ということは、価値がある、ということ。
価値がある、ということは、その価値の本質を端的に
要約できる、ということ。

 法律家の視点として、この寓話に端的な「要約」を与えるとしたら、

            「因果関係」

 原「因」があれば、結「果」がある。
アリにはアリの「原因」があり、その「結果」を享受する。
キリギリスにはキリギリスの「原因」があり、その「結果」を甘受しなければならない。極めて峻厳な、原「因」と結「果」の関係。それが因果関係。

 思えば、法律家は民事でも、刑事でも「因果関係」がメインテーマ。民法で言えば416条然り。刑法で言えば相当因果関係論/抽象的符合説然り。
 
 しかし、全ての結果に原因がある、という考え方は危険だ。最近は、街を歩いているだけで、赤の他人に刺殺されてしまうというような通り魔事件が続発している。それを「前世の因果」とか言い出すと、悪しき振興宗教に振り回されることになる。
 それに、現宇宙がビッグバンで膨張して形成された、というスケールで考えれば、そこには原因も結果も因果関係もヘッタクレもあったもんじゃない。因果関係なんてことを考えたり実践したりするのは、狭い人間界だけのことだ。

 人間と、その他の生物の、もっとも根元的なメルクマールとは・・・?

 人間以外の生物、ほ乳類や昆虫が、餌を探し生殖し営巣する・・・という営みの中に「因果関係」という概念はあるんだろうか?。
 お猿さんは、原「因」を意識して、結「果」をコントロールしよう、という営みをしているのだろうか。棒を使って、檻の外のバナナを引き寄せるとき。     
あるいはカラスが石をくちばしでくわえて、卵を割って食べるとき。たぶんそれは因果関係の理解と実践ではない。

 全ての生物の中で、唯一、人間だけが、因果関係を(その概念的存在を認識・理解して)コントロールできる(しようとする)存在。
  「結果」に対して、常に「原因」があるとは限らないが、人間界において、「原因」を与えれば、所定の、所望の「結果」に至るだろう、ということは、普遍的な理解であり、営みだ。

 もうひとつは「時間(感覚)」ではなかろうか。

 「時間」の概念は「宇宙」につながる。時間と宇宙とは、もしかしたらひとつのものだ。時間はシステム(系)の速度や重力で遅くなったり早くなったりするらしい。宇宙物理学とか、相対/特殊相対性理論のムツカシイことは全然わからない。ヒッグス粒子はみつかったらしいが。

 1次元、2次元が平面、3次元で立体。ここまではお猿さんでも直感でわかってる気がする。バナナをその手で掴んだときに。
 しかしお猿さんが「時間」とか、「人生」に相当する「猿生」を理解したり、
想念したりしているとは思えない。
 そうすると、「因果関係(の理解と実践)」と「時間(感覚)」は、人間というものの根元的属性と言える。
 この2つのセンサーを「必要かつ充分に」保有しているかどうかで(あるいはそういうセンサーが自分には足らない、あるいは過分だ、という「気づき」も含めて)、その人の「人」生は相当に違ってくるだろう。

 年金を払わなかった人は(それが破綻しないことを前提とする)老いて生活の資に欠乏するかも知れない。

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[心に移りゆくよしなしごと]

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