時間感覚が希薄で、自分が老いてやがては死を迎える、ということに対する想像力が希薄であれば、それに気付いたときに愕然とするだろう。
自分が自分の外に発散したネガティブなエネルギーは、必ずや自分に
戻ってくるのだ、ということに思い至らない人間は、常に怒りや不愉快な思いを重ねて人生を終えるだろう。
つまりは、あまりに「因果関係」や「時間(感覚)」というものを等閑視して生きていくと、その人生の結末は相当に悲惨なものになる可能性が高い。
他方、 「因果関係」の意識や、とりわけ「時間感覚」があまりにも鋭敏だと、人はきっとハッピーにはなれない。
夏目漱石は「それから」の中で、神経衰弱を患う主人公、代助に語らせている。
「血を盛る袋が、時を盛る袋の用を兼ねなかったなら、如何(いか)に自分は気楽だろう。如何に自分は絶対に生を味わい得るだろう」。
血を盛る袋は、心臓。
時を盛る袋は、時計。
心臓がひとつ鼓動するたびに、時計の秒針がひとつ、進む。それはいつ訪れるかも知れない、自らの「死」への警鐘。
人間としての基本的属性である「因果関係(の理解と実践)」とか「時間(感覚)」にあまりに強く囚われてしまうと、神経が摩耗してしまう。
しかしながら、そういったセンサーが付与されていることも付与されていないことも、DNA(「摂理」)が決めているのだとすれば、与えられているから良い、与えられていないから悪い、ということではない。背が高いとか低いとか、目がいいとか悪いとか、鼻が利くとか利かないとか、と同じことだ。
あるいは、見かけ上、アリのように働いている人間でも、その実、「因果関係・時間の経過」なんて、これぽっちも頭の片隅にありませんよ、という人はたくさんいるだろう。
一方、一見、キリギリスのように生きているように見える人間でも、内心では、因果関係の峻烈さにおののき、自らの時間感覚の鋭敏さをもてあまし、心に悲しみを秘めつつ、日がな1日、好きなことをして暮らしている、という人もいるだろう。夏目漱石「それから」の主人公、高等遊民の代助のように。
アリ的人間だから「因果関係・時間感覚」のセンサーが鋭敏である、キリギリス的人間だからそのセンサーを与えられていない、ということでもない。
それに、アリ的人間はどうしたってキリギリスになれない。「どうしてそんなに働くのですか」との問いかけに、アリはきっとこう答えるだろう。「性分なんです。あなたのようにのんびりしていると、逆にストレスが溜まってしまう」。
キリギリス的人間がアリ的人間になることができないのはよく理解しうるところだ。そんな面倒、苦労はまっぴらゴメン、ということに尽きる。
You can only be you, as I can only be me....
人間は、どこまで行っても生物。
でもやっぱりすごく特殊な存在。
どこまで行っても他の生物とは、どこか一線を画す、何か、根元的に異なる存在。
あらゆる生物の中で、唯一、「因果関係」と「時間」を理解し、想念し、実践する存在。
これは人間がエラい、特別な存在だ、というわけではない。良くも悪くも、そういう存在として「摂理」により作られてしまっている、ということなのだろう。
人間が、因果関係を駆使して、物質から無限のエネルギーを取り出して使おう、と考えるとき。
人間が、生命に永遠性=時間を与えようとして、遺伝子をコントロールしようとするとき。
そういうとき、人間は「摂理」に抗う存在なのだろうか?
それとも、そういう人間の存在態様も含めて、「摂理」は人間を許容しているのだろうか。
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