僕の模型ヒコーキdays
2015-12-17


自宅リビングのステレオから、「ハイケンスのセレナーデ」のメロディが流れていた。小5の兄が学校の音楽の授業で聴いて気に入り、EP盤を買ってきたのだと思う。小学校4年に上がる前の春休みだから小職8歳の頃のこと・・・。

 いつも立ち読みしている書店で、衝撃の出会いがあった。見つけた本は「ラジ技」。ラジオコントールで模型ヒコーキを制御する世界に、なんとなく気づいてはいたが、眼前にその世界を提示されて、異常に興奮した。早速購入して、端から端まで熟読した。何日も何日も・・・。当時の通信簿の通信欄に、担任の先生は「息子さんは学校でラジ技を読んでます」と書いた。

次に取った行動は、どうしても現物を見たい、ということ。とりわけ、その製作現場。小学4年生の僕は、電車賃を握りしめて、ラジ技に広告が載っている模型店を、いくつも訪問して歩いた。荻窪ニットー教材、生田模型、三鷹トリオ商会、四谷みどりや、新大久保「ぶんけん」、その他多数・・・。

多くのお店は部品や機体キットを売っているだけで模型ヒコーキの構造や製作の現場に直に接することはできなかった。そして送受信機などはショーケースに収まっていた。当時、月収500円の僕から見て、ショーケース越しに見つめる3万円のラジオセットは天文学的金額に思えた・・・。「ラジコンやると身上つぶす」と言われた昭和の時代。
 そうやってあちこち訪問しているうちに、自宅から歩いても行ける高円寺界隈に、1軒の模型店「T塚模型」に辿り着いた。間口1軒の小さな模型店。でも中は本当に凄くて、店主がお客から注文を受けて製作中の大型スケール機や、高級なラジオメカ、エンジンなどが並んでいた。店主のオジサンも気さくで、幼い僕の訪問を疎んじることもなく、むしろ便利な子供だと思ってくれたように思う。
 僕はそのお店に「丁稚奉公」として出入りするようになり、毎日のように通っては、お店の雑務をお手伝いするようになった。店主が外出するときの電話番、通信販売で売れた品物を駅に届ける仕事、細々とした買い物、上客の人の送信機の手入れ・掃除(お客さんの送信機を触らせてもらうときは、天国にも昇るような幸せな時間であった)・・・。「ここ接着するから、ちょっとそっち持っててくれ」とか。来店したお客と店主の間に交わされる専門用語だらけの会話は、一言も聞き漏らさぬよう、耳をそばだてて聴いていた。
 そしてその雑務の傍ら、店主が僕の目の前で見せてくれる、模型飛行機製作の実際(それはそれは巧みの職人技であった)。
 僕はそんなふうにして、RC模型ヒコーキ製作に関するあらゆる知識を吸収していった。材料(バルサ、檜、桜材、アルミ板、真鍮)、木工、加工、接着(セルロース、エポキシ、木工ボンド)、あらゆる工具類の取扱い、絹張り、塗装、メカ積み/リンケージ、模型エンジンの取扱い、手入れ・・・。 

今、僕が実機の動力滑空機シャイベ・ファルケ/SF−25Bを整備・修理するとき、こんなふうにして幼い頃に学んだ模型工作の技術が確かに息づいていると感じる。

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その頃購入した、エンヤ09V型。当時の金額で3000円ほど。ということは月収500円だと半年分のコヅカイをつぎ込んだことになる。
禺画像]

右がV型。左がW型。SNVのニードルがついてます。

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